ひとつのものでもひとによって見え方、感じ方は様々・・・先日訳あって、大阪天王寺(?)新世界辺りをうろつきました。立ち飲み屋さんが所狭しと並び、その間に将棋屋さん(と呼ぶのでしょうか?)も結構あって、平日の昼間にも関わらず、大変な賑わいを見せていました。普段あまり見ない珍しい光景だったもので、ほほぉ〜〜〜と口半開き、目を真ん丸にしてオドオドキョロキョロ・・・。店内からはわたしの方が珍客に見えたかもしれません。ん?いま思い起こしてみると、あの界隈・・・まるで額縁が並んだような店構え・・・店内は・・・遠近感のない絵のような・・・不思議な感じ・・・。そういえば、新世界を抜けて長〜〜い坂道をひ〜ひ〜上っていたら、結構年配のおじさんが杖を片手に自転車(電動アシストではなかった)でほいほい追い抜いていった・・・あれも不思議だったな・・・もっ、もしや、視覚トリックにはめられた!?
今回は・・・らぴすっこは自分の絵なんだから、見えたまま、感じたまま、まあいつもは好きなように描けばいいんですが、三次元のものを無理矢理二次元に表現する方法。他人にうまく伝えるための視覚トリックで遊びます。
「な〜んか算数みたいやなぁ〜」とらぴすっこ。
透視図を描くとき、消失点っていうものを設定します。「消失点」・・・読んで字のごとく「消えて失われる点」・・・でも実際の風景はなくなりはしません。進んでいけばまた見えてくる。
風景はそうだけど、人は死んだらもう二度と会えません・・・とわたしは思っています。だってどんなに会いたいと思っても、どんなに前に進んでも、わたしは未だに死んでしまったひとたちに会えていないもの。
核家族化や医療の進歩によって、死を身近に感じたことのないこどもたちが増えていると聞きました。死に対しての現実味が薄れてきている。いつも一緒に過ごしてきたひとが、ある日死を迎える。そして会うことも、話すことも、触れることももう二度とない・・・これが現実です。すぐに生まれ変われるなんて思わないでください。死はファンタジーではありません。
自分が死んで悲しんだり苦しんだりするのは、自分を心から愛してくれていたひとたちだけです。
そうでないひとたちは、ほんの一時、可哀想に思ってくれたとしても、すぐに忘れてしまいます。
愛してくれているひとたちの人生も含めて、自分の人生なのです。